CITYRAT press PRESS特別企画『写真家は写真についての言葉について語らなくてはならない』
二人の若き写真家がメールでのやりとりを通じて写真について考え問い、少しづつ言語化していく──。
往復書簡第二弾、第三回『デジタルというもの』公開。

 

内倉真一郎さま

 デジタルカメラへの移行に関しての考え方というか、きっかけがいかにも内倉くんらしい。それから、決めてしまったら潔く、暗室機材やフィルムカメラを全部処分してしまうところなんかも。
 僕なんかは、まだまだ、簡単には割り切れそうにない。それはおそらく僕の写真に対する、写真という存在のアイデンティティを考える時の、その本来的な捉え方がデジタルをいかんとも定義付け出来ていないからなんだとおもう。そこには、あるいは僕の写真の原点といえるものが含まれているかもしれない。
 であれば、僕のデジタルについての現時点での雑観を、もう少し詳しく書いておこうと思う。

 大袈裟に言ってしまえば、僕はある意味で、写真とは単なる科学反応のことだ、と捉えている。
 感光材に光が当たって感光して、銀化して潜像する。その後の薬剤処理によって、銀は黒い結晶と化して”光の痕跡”となってフィルム上にその姿を残す。
 そんな単純な科学作用が、僕が写真と呼ぶもののアイデンティティ、根本的な拠り所といっていい。言い直せば、僕は”光の痕跡”のことをこそ、写真と定義し意味付けている。それは基本的に、何が写っているかということよりも、写ってしまっているという事実の方に写真の本質を見出しているともまたいえるだろう。
 つまりどちらかといえば、偶然性とかアクシデントみたいなこと、例えば、何かにつまずき転んで地面に突っ伏した僕の、思わず固めた手に握り締められていた、きらきら光る何だかとても美しい石──。僕が写真に持っているイメージはおよそそのようなところで、何かを表現するための手法、あるいは方法として、写真を第一義的に考えてはいない。そしてまた僕にとって大事なのは、写真の存在原点が黒化した銀の結晶、そのような目で見て触れることのできる実存的背景を伴っているということだ。
 だから、全てが電子データである物質的背景のないデジタルというのは、僕の中で便宜上、写真とは呼ぶものの、それは筆と絵の具で描く絵画とフィルムを使用する写真が異なるのと同様に、まったく別種のツールだと考えている。銀塩とデジタルはやはりその成り立つ土壌を異にしている。
 この事実は別に優劣の問題ではない。それはやはり絵画と写真がどちらが優れているということではないように、フィルムを使用した写真とデジタルデータの写真も比べるようなものではない、と僕は考えている。
 フィルムという実存、物質的根拠は安定したオリジナル性、あるいはアイデンティティ、それらは確固たる背景となる一方、不自由さを生む要素でもある。厳然たる出自がある以上あまりにも逸脱した行為(例えばデジタルスキャンしたデータを過度にレタッチするなど)は、存在の根拠を希薄にするもしくは失するかもしれないからだ。
 だが、デジタルというのはそもそもの物質的オリジナルが存在しない。存在したその瞬間から束縛性のない状態だ。とすればいかようにも出現し得るし、その姿を自由に変化させることもまた可能なはずで、それが本来の在り方といってしまってもそう的外れではないだろう。帰属すべきアイデンティティがない、その拡がりを孕む存在形式が他のツールにはない、デジタル特有の最も優れた特徴であり強みであるはずだ。
 ざっと書けば僕は、基本的にそんな風にデジタルを捉えている。だから、利便性を追求した単なるフィルム写真の進化系代替物としてじゃなくて、グラフィックソフトなどの利用を前提としたその多様変化を、変幻夢幻をこそデジタルの本質に据えるべきではないか、と考えている。
 僕は最近になってデジタルカメラを使い出したばかりから、現在はっきりと感じられるんだけど、フィルムの場合は、すでにプリントになる前にある一定の選択(モノクロかカラーか、数種類のフィルム)を迫られるし、フィルム現像ができた時点では、その後の選択肢というのは限られているから自ずと進むべき道はある程度、予め示されている。だけどデジタルになると、パソコンでデータを開き、ひとつのデータに向かう時、まるで茫漠とした土地に放り出されたみたいで、どちらへも進むことができるという気楽さを感じる一方で、どこからやってきてどこへ行くべきなのかと、自由ゆえの根無し草、いよいよ途方にくれることがある。これは大変だぞ、って感じでね。
 僕にとってそういう意味ではデジタルの方が難しい。やっていくうちに自分の中の指針となるような感覚が身につくのかもしれないけどね。

 そういえば僕は最近、より写真の原初的なもの、サイアノタイプ*1に興味が出てきた。光をより間近で、眼に見える、触れられそうなほど分かりやすく感じられるというのもあるし、ここらはもう半分は性分というか、理科の実験とか好きだったしね。
 おそらく今後やることになる幾つかの展示では、スプレーペイントやシルクスクリーンといったストリートの方法と、サイアノタイプのような写真の原初的技法を組み合わせて作品制作していくことになりそうだ。
 内倉くんは、今年は個展が控えているとおもうけど、展示作品の制作や展示方法に関して具体的な展望は持っている?
 デジタルカメラへの移行へのきっかけとなった”アベドンの5メートルのポートレート”みたいな巨大なプリントを制作するとかね。写真そのものに関しては、かなり独特な雰囲気を作り出すことをしているけど、展示方法で新しい試みを考えていたりはしないのかな。
 僕なんかは勝手にそのあたりを、内倉真一郎の世界観をもっと打ち出した展示を観てみたいな、と思ってるけど。もちろん話せる範囲でかまわない、あるいは実現可能かどうかは別として、プランとして思考しているものがあれば聞いてみたい。

 ついつい、書きすぎてしまった。
 質問にあった、写真の原点になった写真家と、原点といえる自身の作品については、また別の機会に、何だか照れくさいしさ、この前みたいにだらだらと呑みながら話すことにするよ。
 僕が写真に引き込まれることになる写真家・中平卓馬について。
 それから、その姿に、その写真に向かう姿勢に僕は初めて写真家という人種を見たということについて──。

 

2017年5月31日
横山隆平

 


街区の壁の野晒しの、いずれ消えゆくグラフィティのような都市と光と静物のひどく短い歴史 / 2015より

「OLD BOOTS」スプレーペイントを施したシルクスクリーンポスター / 2016より

横山隆平さま

 確かに僕らしさであるかもしれません。
 写真表現の新しい可能性を感じるものがあれば僕は古い物事を潔く捨て、次のステップに移行するタイプです。でもそれはとても単純でデジタルとフィルムの違いを徹底して追求した訳でもなく暗室で作業する第三の場と思います。
 第一の現場が撮影、第二の現場は現像、第三の現場は第一と二を開花させる最も重要な場が暗室でのプリント作業でした。
 それは今思い出してもとても鮮明でイルフォードの光沢紙、オリエンタルのバライタ紙。どちらの選択にするかで作品もガラリと変わる。バライタ紙であればあえてほんの少し定着中に感光させ独特な黄ばみを出すなど。
 その作業は写真の最も楽しい現場でもありました。ですが、前回書いたようにPCにネガが入り込んだ瞬間に暗室での美しい思い出は全て曖昧になってしまったのです。その曖昧さや違和感を感じるくらいならばいっその事、売ったら結局誰かの手元に残るという未練すら嫌でしたので、暗室機材を全て捨てました。これで自分を無理やりと言ってもいいかもしれません、追い込み新しいスタイルを確立しようと思ったのです。
 結局のところフィルムでの三つの現場と同じように、デジタルカメラで撮影し、PCにデータを入れフォトショップでレタッチをしてプリントをする。
 この行為もやり始めたら暗室作業を極めていないと中々出来るものではありませんでした。結局は撮影段階での徹底した絞りの意味とシャッタースピードの意味。
 決してオートで撮影することもなくレンズも作品を撮る時は全て単レンズ。そしてカラーとモノクロを両方選べるのがデジタルの特徴の一つですが僕はPCにデータを入れたら即モノクロに変換し元データは完全にバックアップもせずに捨てます。残ったのはカラーに変換できないモノクロデータのみなのです。
 フィルムの時も曖昧に感じたショットはネガごと捨てていました。そういった意味合いでは気持ちはアナログのままです。あくまで撮影行為に対して腹をくくっていく事が重要だと。フィルムカメラの時の想い(手法)がデジタルに移行しただけの事です。

 横山さんのデジタルの考え方は理科が好きとおっしゃる通りで定義付けからしっかりしていて全く僕と考え方が違うなと、いや、むしろ流石だなと思いました。この考え方の差ってとても面白いですね。だから淳風小学校で個展された作品たちはあんなにも輝いていて、"何が写っているかということよりも、写ってしまっている"にもあるように写ってしまっている、または横山さんの全身が化学反応をしカメラとなり撮らざるおえない。そのようにも感じました。
 サイアノタイプは僕は全くの無知なんですが、スプレーペイントやシルクスクリーンはとても楽しみです。ある程度、想像もできるのですが現物を見たら横山さんのファンとして僕は感動するはずです。やはり横山節がガンガンに効いているスナップショットはストリートに原点ありというのか、出発地点と着地地点がストリートでありストレートですね。それでこそ横山さんの確立されたアーティステックな部分で魅力的なところだと思います。そう考えると新宿ではなくやはり渋谷ですね。僕の大好きなアンディ*2もその作品を見たら喜ぶような気が。。。

 横山さんも今年は台湾のアートフェスタ、京都での個展を終え、さらに展示を控えていると思うのですが、どんな展示になるのかとても楽しみです。僕は質問にあったように新しい展示方法になります。様々な方々から気がついたらよく言われるのが、内倉といえば巨大プリントで圧倒的な迫力ある展示。そのように思われているのですが、最近では僕の作品の展示方法を新しくアレンジしてくださるギャラリストの方がいて、僕には全く足りない部分(額装、展示方法等)をフォローアップしてくれていますので、知ってはいたけど奥が深く額装一つで作品の見せ方がガラリと変わる部分など、今後はいままでとは違ったアプローチとなりそうです。
 当たり前のことですが作家を丁寧に扱ってくれ、作品をしっかりと売り出してくれる。そのようなギャラリストの方と出会いました。それにより今までにない展示方法になっていくと思います。

 また、詩人、キュレーターの方々ともコラボレーションし新しい展示や、本作りなどを始めています。今後の展開ですが過去の作品を完結させるために再度撮影しています。その作品たちを東京、大阪を拠点にして発表をし、アートプロジェクトチームとも連携し海外にも作品をアプローチして行く予定です。

 先日、清里フォトアートミュージアムYPレセプションで東京に宿泊した際に、横山さんとPIS 3rd EXHIBITION 「SKULL & BABY」を渋谷でゲリラ展示しました。都市のど真ん中の屋外で無許可に展示する作業は毎回ヒヤヒヤします。でもあのゲリラ展示を設営作業している最中は何もかも忘れて夢中になり、終えたらとてつもない達成感があります。PISをスタートして一年近くが経ちますが、ゲリラ展示を始めたきっかけや理由などを教えてください。
 また、横山さんの今後の活動方向など公開できる範囲内で構いません、何かお考えがありますか?
 それから、この「往復書簡」も企画しているCITYRAT press.ですが今後、どうなっていくのでしょうか。
 またCITYRAT press.の着地点などありますか。

 横山さん。今日6月1日は写真の日ですね。まさに中平卓馬氏や東松照明氏、土門拳氏。 
 このような写真の原点でもある写真家の方々の写真集を見ようと思います。 
 今日は久しぶりに。。あ、こないだ一緒に飲みましたが(笑)今日は一人ジャックダニエルをチビチビ呑もうと思います。 

 

2017年6月1日 
内倉真一郎

 


BABY / 2017より
人間図鑑 / 2011より


注釈
*1 cyanotype 銀塩の化学反応を利用した複写の古典技術。光の明暗を青色の濃淡で表現するため、青写真とも呼ばれる。
*2 アンディ・ウォーホール / Andy Warhol アメリカの画家・映画監督。ポップアートの第一人者。コカコーラ、キャンベルスープ缶など日常にあるものやマリリン・モンロー、エルビス・プレスリーなどをモチーフにシンボル化した版画などを制作。

横山隆平

横山隆平 Ryuhei Yokoyama

写真家。1979年大阪府生まれ。
モノクロフィルムによる都市写真を中心に作品を展開。Photography Magazine 81LAB.、CITYRAT press立ち上げに参加。主な作品集に「TOKYO,UNTITLED.」、「酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ」等がある。2016年ゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
http://www.gumbuilding.com/photograph/

内倉 真一郎 Shinichiro Uchikura

写真家。1981年宮崎県生まれ。
主な個展・受賞歴に2010年、2011年、2013年Canon写真新世紀佳作を三回受賞、2016年コニカミノルタフォトプレミオ受賞&個展開催、2008年Nikon Juna21受賞&個展開催、清里フォトアートミュージアムYP作品パーマネントコレクション合計19点等がある。2016年写真家 横山隆平とゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
https://www.uchikurashinichiro.com

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