CITYRAT press PRESS特別企画『写真家は写真についての言葉について語らなくてはならない』
二人の若き写真家がメールでのやりとりを通じて写真について考え問い、少しづつ言語化していく──。
往復書簡第二弾、第一回『表現者としてのナルシシズム』公開。

 

内倉真一郎さま

 何から話をしようか。
 あるいはどんな話ができるだろうか、数日前から考えを巡らしていた。
 Photography Magazine 81LAB.*1に始まってシティラットプレス、ゲリラ展示プロジェクトのPIS*2を始めたり、最近では台湾でのアートフェアに出展したりと付き合いも長いし、時系列に沿って話していこうかとも思ったけど、そんなことはやめにして、写真家として、また純粋にいちファンとして、内倉真一郎の写真についての思想、ルーツ、スタイル、技術、制作過程、独自のレトリックについて詳らかになるよう正面から問いかけて、また同じように隠すことなく僕も答えようと思い直して、書き出している。また、公開を前提としたこの往復書簡を機に国内のあらゆる賞を獲っている写真家・内倉真一郎のいま現在の思考を幾らかでも、引っ張り出そうとも──。
 考えてみれば、写真についてそれなりに話もしてきたけど、具体的にそのあたりのことを聞いたことはなかったし、プライベートでみせる破天爛漫なキャラクターとは別に、こと写真に関しては、戦略的で理知的な考え、厳しさとしたたかさを持っていることを知っているから。
 
 さて、僕が写真家・内倉真一郎の写真を眼にするとき、いつもそこに感じるのは、対象から現れるある種の奇異、または洗練された奇矯性の表出とその過度に華美な強調性だ。断っておけばそれは単純に表面上、ビジュアルの問題ではない。それを突き抜けて現れてくるむしろ本来性とでもいうべき事柄のことだ。またその過度な本来性の表出は、巧みな演出や、状況装置によって装飾され作り出されているのか、といわれればそうではなく、むしろ余計な要素は排除すること故であるように僕には思える。だからこそ見るものを惹きつける力強さに繋がっているのだろうと──。
 それはまた、対象に拠らない。これまでの作品に終始一貫している要素のひとつであると僕は考えている。
 例えば、いま現在京都で展示されているKG+AWORDにノミネートされた「BABY」*3についてもそうだ。
 このシリーズは生まれたばかりの自分の子供、というよりは新生児といわれるおよそその短い期間を撮影したもので構成されている。
 なぜこの対象を選び、またなぜあのような生まれたばかりの生の美しさを飛び越えたグロテスクさを導き出そうとしたのか。それともそのような意識、こういう感じにしようというあらかじめ自身の内に用意されたイメージ、趣向や思考はなく、ただ単純に記録として撮ろうとし純粋にレンズを向けたあと、立ち現れた写真をみて創り出していったのか。またそれは父親としての視線なのか、写真家としてのそれなのか。

 卵が先か鶏が先かではないけどさ。一見するとテーマや技巧を駆使しているようにみえるけど、そんなことはないんだよね。
 また、世界を斜に構えて眺めているということもない。いつだってストレートなんだ。
 このことについてはよく話をしているし、いずれ折をみて触れていこうと思っている。
 結局、それは対象をどのように見つめるか、受け入れるかという眼差しの問題なのだろうとおもう。そこにある意識感覚がやっぱり写真家の持つ独自性なんだとも言ってよさそうだ。あるいは例えば、誰しもが持つ幼児への共通言語のようなもの、”可愛い”という感覚そのものが端から違うというか、先入観をもっていないといってもいいかもしれない。ストリートスナップをやっている僕なんかはむしろ街や都市に溢れるイメージにある種の共鳴をしながら、またそれら意図的に作り出されたイメージを多角的に利用したり抵抗しながら、組換え増大させ解体、提示していくようなところがあるから。
 答えづらいところではあるだろうけど、つまるところテーマ設定に始まり、作品として発表するときに全てを完璧なコントロール下においているのか、それとも偶発性を起点としているのか、あるいはそれらのバランスを重視しているのか。それともまったく別の考えに基づいているのか。僕が聞いてみたかったのはそういうことだ。

 いざ書いてみると、詰問してるみたいにいろいろ聞いてしまった。
 何だかこれから写真を志す学生みたいな心持ちだ、的外れなことばかり聞いているかもしれないけど、とりあえずこのあたりのことから始めてみたい。
 賞レースに縁のない僕だ、大目にみてくれ。
 それでは、返信待ってるよ。

 最後になったけど引き受けてくれたことに感謝を伝えておきたい。
 僕自身この企画をやり始めてみてわかったことだけど、写真についての考えを言葉にして公に晒していくというのは、記録されることのない酒上の事とは違って、それなりに覚悟のいることだと痛感しているし、また作家としてのアイデンティティに関わることでもあるから。


2017年 4月22日
横山隆平

 

 

果たして路上は、都市のネズミの書く詩のように続いてゆく/ 2016より

果たして路上は、都市のネズミの書く詩のように続いてゆく / 2016より

横山隆平さま

 「往復書簡」"写真家はもっと写真についての言葉について語らなくてはならない"このテーマは写真家にとって最も必要なことだと思います。濁す、惑わす、詩、などではなく写真家が写真に対して捧げる言葉。または写真家同士で互いの写真論を突き詰めていくストレートな場。独自性こそが感性であり写真を作品化していくからには写真について語るということは逃げ道のない、知る、撮る、見る、発表する場とは全く違う、記録される第二の現場であると考えます。
 そして長年のお付き合いと僕が写真家として尊敬している横山さんからのお誘いは断れませんし、いつも考えられてる企画はとても楽しくて今回も感謝しています。ですので僕はあまりお酒を呑まないのですが、今回お酒を呑みながら言葉にしようかと思いましたがやめました。僕のテーブルには珈琲とタバコしかありません。本気を写真だけでなく言葉で記録するのですから。

 僕の作風は同じテーマを撮り続けていくスタイルではなく、シリーズごとにテーマが変わっていくスタイルです。そのテーマの決め方として常日頃スナップをしていますが、そのスナップショットを見てピンときた時にテーマの糸口が見えてきます。スナップには日常の全て、またはそれ以上を記録することがあります。その写真を見て、その中からテーマをセレクトすることはゲラを作成していくようなものです。それはただひたすらに撮る=スナップショットから再度一枚一枚じっくり見て自分のアンテナが何処に向かっているのかを確認し、これは面白いと思った瞬間から徹底して作品のテーマを決めていきます。また、偶然の出会いから始まる物事もテーマ決めの一つの要素になっています。

 初期作品でいうと「私は自分に恋をした新しく産まれる自分に」*4このセルフポートレートのように非現実的なところと自分だけを見て欲しい。このようなナルシシズムから始まっています。そのナルシシズムは表現者として絶対的と考えていて、時に写真は自分自身の鏡のような役割もあるので、自分を愛していないと納得する写真は撮れません。なので自分に泥酔いしながらも写真を見る側には自身の世界観に引き込まれてほしいと感じ、また同時に、そうさせるにはどのような方法があるのかを考えながら作品を創っています。 
 
 写真の対象は日常の全てです。横山さんがストリートで狩り=スナップショットをするように美しいと感じた瞬間、僕は裏の世界を見ようと思うのです。
 「BABY」もその一つで産まれてから既に死に向かっている。そして生きようとしていく生命力。新生児だからこそ強く感じました。それはグロテスクと言ってもいいと思います。いつだって美しさには生と死が必ずあってグロテスクは最もその本来性を暴き出す行為であると考えています。そう考えると父親としての目線ではなく写真家としての目線、あるいは自分自身の曝け出しです。その死から生に向かうグロテスクな人間模様はテーマを決定した時点である程度は決まっているのですが、写真の面白いところは、写真にした時に見返すと新しい答えがドン!と来る時があるということ。そこから更に追求していく作業と余計なものを削除していく作業が始まり一つのシリーズが出来ていきます。

 自身の曝け出しはまさにストレート真っ向勝負しかなくて、それが一番難しくてごまかしようがありません。それがまた写真の一番面白い部分だと思います。例えば横山さんのKG+での個展*5で展示されていた光に突き刺され影ができ暴きだされた物達(バック、帽子、など)。それはとてもセクシーで、その背景には都市が必ずあります。僕の原点はストリートスナップから始まっているのですが、宮崎に戻る時期にもう東京は現実的に撮れないのであれば、いっその事潔く完全にストリートスナップを止めました。そこからは苦難の1年間がありました。地方で何を撮るのか、写真家もいない、ギャラリーもない、見せる場、見る場がない状態でどうモチベーションを写真に向けていくのか。初めて何を撮るか分からない日々が続き、ひたすらに宮崎で写真を求めカメラを向け探し続けました。そんなある日、何もない白い壁にポツンと立ちすくんでいる少年を見て、その時にスッと入ってきました。僕がスナップしてきた都市の殺伐しさ、儚さ、可笑しさ、その全てを人間にぶつけようと思ったのです。そこからは迷うことなく背景に都市がない状態にし、白いペーパーと黒いペーパーに窓辺から差し込む自然光だけ。人間に僕の世界観全てを叩き込もうと制作したのが背景なしのポートレートシリーズです。「肖像」*6、「人間図鑑」*7、「BABY」は特にそうなんですが、三つのシリーズに一貫しているテーマはごくシンプルで被写体が気付いていないもう一人の自分への暴き出しと、僕自身の写し出しが融合するものです。

 KG+に関しては別の場で話させていただくのですが、僕はこれまでに数多くのコンペティションに応募してきました。清里フォトアートミュージアム、NikonJuna21、コニカミノルタフォトプレミオ、Canon写真新世紀。有名といわれ応募人数も凄まじいコンペに果たして自分の作品はどう見られるのだろう? という観せる第二の場として応募してきました。横山さんの作品はそのコンペに出さないところが作品と、お人柄ともマッチしている写真家で、スタイルを既に確立されていると思うのですが、9年間のお付き合いの中で横山さんに初めてお聞きするのですが、何故、個展、出版、企画展、海外出展は確実にしていてコンペには出さない本当の理由はありますか?
 また、作品はモノクロームじゃないといけない理由などは聞く必要もないように感じますが、改めて何故モノクロームでしょうか。そして横山さんの写真の核となる部分など、どのようなものでしょうか。


2017年4月28日
内倉真一郎

 

 

私は自分に恋をした新しく産まれる自分に / 2002より
左 肖像 / 2010  右 人間図鑑 / 2011より
BABY / 2017より

 

注釈
*1 Photogrtapht Magazine 81LAB. 写真専門の季刊のフリーペーパー。現在は廃刊。
*2 PIS(Photograph in the STREET)2016年に写真家の内倉真一郎と横山隆平が始めたゲリラ展示プロジェクト。
*3 自身の子供を新生児の期間にモノクロで撮影した内倉真一郎の最新作品シリーズ。2017 KG+AWORDにノミネート作品。
*4 2002年「私は自分に恋をした新しく産まれる自分に」処女作。セルフポートレート。
*5 2017KG+で廃校になった小学校の教室で行われた写真展「沈黙と静寂 Silence and Stillness」。
*6 2010年「肖像」背景なし。自然光と無地バック黒、白だけで撮影したポートレートシリーズ。
*7 2011年「人間図鑑」この作品シリーズは2014年に「A human pictrial book」としてシティラットプレスより出版。現在は絶版。

横山隆平

横山隆平 Ryuhei Yokoyama

写真家。1979年大阪府生まれ。
モノクロフィルムによる都市写真を中心に作品を展開。Photography Magazine 81LAB.、CITYRAT press立ち上げに参加。主な作品集に「TOKYO,UNTITLED.」、「酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ」等がある。2016年ゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
http://www.gumbuilding.com/photograph/

内倉 真一郎 Shinichiro Uchikura

写真家。1981年宮崎県生まれ。
主な個展・受賞歴に2010年、2011年、2013年Canon写真新世紀佳作を三回受賞、2016年コニカミノルタフォトプレミオ受賞&個展開催、2008年Nikon Juna21受賞&個展開催、清里フォトアートミュージアムYP作品パーマネントコレクション合計19点等がある。2016年写真家 横山隆平とゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
https://www.uchikurashinichiro.com

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