CITYRAT press PRESS特別企画『写真家は写真についての言葉について語らなくてはならない』
二人の若き写真家がメールでのやりとりを通じて写真について考え問い、少しづつ言語化していく──。
往復書簡、第二回『立ち帰る原風景』公開。

 

シノハラユウタさま

 返信有難う。僕の投げかけに、”言葉にならぬ何か”をどうにか言語化しようと悪戦苦慮したプロセスがそのまま露呈しているようで、こう言っては悪いのですが、とても面白く読ませて貰いました。決して写ることのない”味音痴なセクシーな女”というフレーズに内包される、僕らは写真に何が見えているのか、あるいは何を見ようとするのか、という写真の根本的な矛盾。この事柄に関してはまた、酒でも飲みながら折をみてさらに深く話してみたいと思う。

 さて、僕の生い立ちとしての原風景は何かと聞かれれば、同じようなニュータウンと呼ばれる郊外の町なんだけど、それが直截写真に影響しているかといわれればまったく無関係だといえる。ただ、写真家としての都市に立ち続ける理由としての原風景、バックボーンとしてはどうだろうかと捉え直したとき、それは僕の触れてきた、憧れにも似た懐かしいストリートの記憶がやはりそれにあたるのかもしれない。スケートボードをしたり、バイクに乗ったり、ライブハウスに行ったり、クラブでレゲエ、ヒップホップ、テクノで踊り狂い、バスキアのグラフィティにノックアウトされ、ルー・リードやキース・リチャーズ、ケルアック、ブコウスキーに痺れた。それらごたまぜ、ジャンルの別なくその全てが僕にとって都市そのもので、憧憬として映った。
 僕はとにかくストリートカルチャーと呼ばれるようなそんなものが好きだったし、そんな事ばかりに夢中になっている連中とずっと付き合ってきた。

 写真にしたってアカデミックな教育はまったくうけていない独学だし、ヒップホップにロックンロールやパンク、ビートニクに酔いどれ作家が好きなのだから、綺麗な写真よりもざらついて荒れたそれの方がぴったりくる。言い換えればまたバスキアのグラフィティ、キース・リチャーズのだらしの無いギター、ケルアックやブコウスキーの文章のような写真が撮りたいのかもしれない。僕が路傍に転がるコーラの空瓶に、ラブホテル街の路地に差し込む陽光、見返す女の視線、AKIRAの上映告知のポスター、足早に過ぎ去る女の頭で傾いで揺れる大きな帽子や雑踏の人いきれ、ショーウィンドウにひっそりと佇む髑髏、、、といった本当に雑多な取るに足らぬ路上の無名の群像劇にどうしようもなく魅了されるのは、結局、出自がストリートなんだと今更ながら感じる。他にもPIS*1をやったりね。
 いずれにしてもこれまでに見聞きし読んできたあらゆるもの、映画や音楽、文学、詩歌、絵画、個別に書き出したら切りがないそういったものの影響が色濃く、また逃れようなく僕の視線に反映されているんだろうと思う。

 いまこの返信を書きながら、つまるところ前回に書いた自己を極力消失するようにしてといったところで、機械やロボットではないのだから、私的な動機からは逃れられない、そんな単純なことを実際的な体験として確認したことを思い出す。
 僕は以前、そのことについて幾らか真剣に取り組んだことがあった。それは現代音楽家のジョン・ケージの考えた手法、チャンス・オペレーション*2を写真映像に応用したものだった。よく晴れた日中、車の助手席にカメラを固定して幹線道路を走りつづけ、その間シャッターを開きっぱなしにして三十分ほど、オートマティックに風景を光をフィルムに流し込む。それは私的な選択性、例えば俗性や嗜好性、また作家性や作為性などのあらゆる恣意的な要素を排除して偶然性を引き込むという試みだった。”写真とは何か”という、常に写真家の行動に影を落とす永遠のテーマへの直接的で実践的なアプローチでもあった。

 結果としては上々だった。評判もよかった。だけど僕はすぐにやめてしまった。
 それは単純に呆れるほどつまらなかったからだった。僕の中で結果としての写真と、シャッターを押すという行為は分かち難く結びついているということ──。
 そういう事だった。それはやってみて初めて分かった事だった。現代アートをやっている人なんかはここのところをドライに軽々とやってしまうのだろうと思うけど、結局、僕は最初は眼で、ついで脳で知覚され行為へと繋がる行動から始まる肉体性みたいなもの、その確かな実感にどうしようもなく拘泥しているのだった。
 僕にとってこの実際を伴った経験は少なからずショッキングで重要な出来事だった。
 カメラを持って歩き、目前の世界を見てどきりとし、感動して或いは緊張してシャッターを押す。そんな単純なこの行為こそが僕にとって写真だった。僕は写真が”撮りたい”のだった。また、それは同時に新鮮な発見でもあった。僕はもともと自分の考える、ある種の論理的写真が作れればそれでいいと、考えていたからだ。
 この経験があったから、自身が立つ場所を踏みしめるある種の割り切り、覚悟ができたように思っているし、写真を撮るという事が、本当の意味で理解できたと思っている。それはまた矛盾を矛盾として抱え込んでいくしかないのだとしても──。
 
 僕の中で、これまでに俗してきたストリートの記憶、そしてこの一連の経験がある意味においての原風景、あるいはバックボーンと呼べるものだと考えています。それがシノハラくんからの問いかけへの正確な答えとなっているかわからないけど、”立ち返る原風景”といった意味合いでいうならそう的外れではないだろうと思えるし、また僕が街に立ち続ける理由としても十分だ。
 立ち返る原風景はまた、撮影からセレクト、プリントに至るまでの僕の写真のすべてを貫いているようにも感じられる。
 シノハラくんの撮影された膨大なカットから発表する写真を選ぶ際の判断基準や条件、或いは指針となるような依って立つ思考はどのようなものなのだろうか。それはまた、僕のように記憶や経験から身についたものなのか、それともまったく別種の考えや動機からくるものなのか。その辺のところ、聞いてみたい。

 いまになってシノハラくんの言った「説明しようと思ったら三日三晩自問自答を繰り返し、絞り出た言葉をまた三日で否定してしまいそう」がよくうなずける。「写真についての言葉」なんてちょっとした思いつきで始めたけど、読み返すのが怖いな、酔っているしこのまま送ってしまうことにするよ、酒のせいにしてさ。

 

2017年1月21日
横山隆平

 

 

TOKYO,CHANCE OPERATION / 2008より

 

髑髏 / 2016より

横山隆平様

 おはようございます。返信ありがとうございます。
 ストリートに身を投じて、ストリートの中で呼吸をしている。なるほど横山さんの写真の原風景はそのまま写真に表れている、そんな気がしました。またすごいのは違う手法を試したってことです。僕はなかなか頭が固いのか、これまで違う手法で撮影してみようと思ったことがありません。頭が固いというより、こうする以外他にないんだって結論が割と早く出たような気もします。
 その話をするために、またちょっと過去の話をします。

 僕が初めて個展をしたのは2008年の時です。(今、もうすぐ10年経つのかってゾッとしてます。)
 当時僕は鬱病を患っていて、写真を撮るエネルギーはあるのに写真を選ぶ思考力は向精神薬のおかげで完全に失っていました。セレクト用にL判プリントしたものを床に並べて腕を組んでも、ただ腕を組んでいただけで「考える」ということが出来なかった頃でした。気づけば「これをセレクト用にしよう」と思ってやったL判は、当時デジタルカメラで撮影した全ての写真をプリントしていました。その数約1万枚。
 その1万枚のL判を二週間かけてギャラリー10:06(テンロク*3)の壁に一枚ずつ虫ピンで貼り、天井には不規則に写真を両面テープで貼り、それでも余った写真は床に散りばめました、これが僕の初個展「NO BRAIN」です。僕の脳内(脳がない)を見せてやろうと思ってました。しかし、確かに1万枚の光景は圧巻だったんですが、二週間かけて貼ったあとに「これ僕の写真じゃなくても出来るな」と感じたんです。写真展のつもりがインスタレーションの展示になってしまったんですね。初個展で緊張しながらも、もらった感想で一番印象に残っているのはやはり搬入後感じた「君の写真じゃなくても出来る」だったんです。僕が感じたことと同じことを言われた、そういう印象もありますが、僕が思わなくてもその言葉はとても強烈に胸に刺さっていたものだと思います。対象を見るのも、シャッターを切るのも自分ならば、撮ったものを選び展示するのもやはり自分だ。とてもシンプルだけども、一番大事な結論は約10年前、その言葉を発してくれた人によって出されました。

 そんな結論が出てから、ちゃんと写真を選ぶようになりました。
 さて選ぶ時の判断基準、僕はなんだろうなと思い返してみると決まって休日の午前中にセレクトしている気がします。
 僕は撮っているときは本当に何も考えていません。前回書いたような街への憧れも、もっというなら「人をマネキンだと思って撮っている」ということも忘れているかもしれません。街を歩き、動物反射のように動くものに反応する。夜を歩けば光に向かって歩くか、美味しそうな匂いの方向へ足を向けていたり。昼は昼で人の集まる方向へ歩いたり、喫煙所はないかと探しながら歩いたり。写真を撮っているというよりは、ただ街を歩いているという感覚に近いと思います。
 あまりにも撮っている時に何も考えていない分、選ぶ時にはもう一度、今度は腰を据えて撮ってやろうという気持ちで挑んでいます。
 腰を据えているとは言え、今の判断基準は昔に比べて制約を取っ払ってきています。前回にも書いた通り、僕は結構良い意味で適当になってきました。たとえば時期が分かるようなもの、写真の中に浴衣やマスク姿しかないものは除外してました。見た時に「夏祭り」や「花粉症」ってワードを連想してほしくなかったからですね。でも「エヌ」の一枚目の写真は思いっきり浴衣です。あと外国人も避けていました。「日本で撮ってるのに外国人の写真ってどうなん」って偏屈な理由だったと思いますが、今大阪は大量の外国人旅行客、とくにアジア系の外国人だらけなのでもう人間だったらいいやってスタンスになってます。
 自分の写真を見る一番最初の人物は他ならぬ自分自身です。膨大なカットからどうやって見せる相手に「シノハラユウタの徘徊記を伝えようか。」それを考えながら選んでいます。
 と、こんな答えでいいのか分かりませんが僕は撮るときと選ぶときは別人に近いくらい感覚が違っています。

 ちょっと話は戻りますが、撮るときに極力何も考えなくなったのにも、ちゃんとそこに行き着いた理由があるんです。

 前回、僕は最初から街でスナップを撮るような人間ではなかった、と書きました。街への憧れで街へ出てそこに立っています。でも何年も同じ街を撮っているとやはり既視感が付きまとうものなんです。今でも既視感は頻繁に起きていて、「ここを曲がれば陽が良く射す」とか、「前を歩くあの人はそろそろ振り向いて僕に撮られる」とか。(後者は一度しか経験していませんが)
 既視感を取り除く方法は色々あると思います。”そこに住んでいるのにそこを初めて旅する感覚で歩け”とは恩師の言葉だったんですが、僕は結局「何も考えない」に落ち着いたんです。むしろ、既視感も楽しむほど馬鹿になってきている気がします。机上で再び全く同じ道を歩いているときも、「馬鹿だなぁ」って思って笑っていたりするもんです。なんどもなんども同じ道を歩いて、同じ写真を撮っているからこそ、僕自身が感じる既視感のほんの一部分だけの相違点を僕は見つけて、それを選んでいる。色々と書きましたが、つまるとこ僕のプリントに至る判断基準って、そこなんじゃないかなって思います。
 横山さんはそういった既視感を感じているのでしょうか。もし感じていたら、どうやって取り払っているのか、僕と違った意見を是非聞いてみたいなと思っています。

 この文章。書くのに相当時間がかかってしまいました。おはようございますと書き始めていたのに、あれやこれやと考え、お酒を飲んでいたらもう夜です。ちょっと前に知人が「写真のように言葉も切り取ったら良い」なんて言ってましたが、僕はどうやっても言葉を写真のように馬鹿に考えられないようです。だって動物反射的に発する言葉って、せいぜい悲鳴とかじゃないですか。

 

2017年2月4日
シノハラユウタ

 

 

「NO BRAIN」 gallery 10:06 / 2008 展示風景より

 

混濁する風景 / 2017より

 

注釈
*1 PIS(Photograph in the STREET)2016年に写真家の内倉真一郎と始めたゲリラ展示プロジェクト。
*2 アメリカの現代音楽家ジョン・ケージの考えた偶然を利用する、例としてサイコロやコイン投げなどを使用して譜面を作成する手法。
*3 gallery 10:06 大阪市北区天神橋筋6丁目にある写真ギャラリー。初個展「NO BRAIN」と二回目の展示「S.Q」を開催。現在は閉廊。

横山隆平

横山隆平 Ryuhei Yokoyama

写真家。1979年大阪府生まれ。
モノクロフィルムによる都市写真を中心に作品を展開。Photography Magazine 81LAB.、CITYRAT press立ち上げに参加。主な作品集に「TOKYO,UNTITLED.」、「酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ」等がある。2016年ゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
http://www.gumbuilding.com/photograph/

シノハラユウタ Yuta Shinohara

1985年島根県生まれ。大阪府在住。
2006年ビジュアルアーツ専門学校卒業。以降大阪を中心に写真活動を行う。
主な個展に「NO BRAIN」(gallery 10:06 - 2008年)、「Mr.Liberty」(TOTEM POLE PHOTO GALLERY - 2012年)。作品集に「CROPSシリーズ」(タブロイド版-2014~2015年)、「エヌ 人間」(CITYRAT press 2016)がある。

オフィシャルサイト
http://www.shinoharayuta.com

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