CITYRAT press PRESS特別企画『写真家は写真についての言葉について語らなくてはならない』
二人の若き写真家がメールでのやりとりを通じて写真について考え問い、少しづつ言語化していく──。
往復書簡、第一回『味音痴なセクシーな女』公開。

 

シノハラユウタ さま

 これから数回に渡って「写真についての言葉」について往復書簡、対話形式でやっていくんだけど、まず、なぜ僕が一回きりしか顔を合わせていないシノハラくんに声を掛けたかというと、昨年末にgallery Main*1で行われたCITYRAT pressグループ展でのレセプションで少し話したことが気に掛かっていたからです。
 あの場で「何を撮ってるんですか」、「どういう意味があるんですか」という事を展示に立つ度に聞かれて困るんだよな、と僕らは話した。それは単純にストリートスナップというスタイルで、さらには特定の対象、コンセプトを定めず、目的もストーリー性も無視した極端に雑多な写真をやっているからだった。でもそのあと、別の話題を媒介にしながら、先の問いに対する答えの欠片、幾つかの共通言語を、呑みながらの会話の中で見出すことが出来たし、僕が「写真家はもっと写真についての言葉について考えなきゃならない」と幾らか大袈裟に言った時に、酔っていたにせよ、シノハラくんが大きく頷いてくれたからだ。
 巨匠とか大御所と呼ばれるような大作家の「写真なんて写真でしかない」とか「写真なんてシャッター押せばいいだけよ」などと嘯いてみせるその様は、飄々としていて格好いい。だけどそこには散々やってきての言だからという自負と重みがある。格好いいからそう言ってしまいたいけど、僕ら若手はそれを軽々しく言っては駄目だと思う、同じレベルでの発言には決してならないのだから。
 何故写真を撮るのか、写真が最も得意な事、写真にしか出来ない事は何か──。
 結果としての写真についての説明は出来なくても、それ以前の事なら十分に答えられる言葉があるのではないか。例えばそれはどのようにして、何故そのような写真になるのか、という事、仮に〝写真前夜〟についてであれば…。いま暫くの内は、シャッターレリーズに指が掛かるまでの膨大な言葉について自身に問い、出来るだけ言語化するのが重要だと、僕は現在考えています。 

 写真映像というメディアは根本的に簡単で器用だ、絵や言葉や音楽に比べて。だから、これだけ使用され利用されて発達しもしてきた。例えばインスタグラム、フェイスブックなどのSNSでイメージや、自分の気持ち、感情を表す為、あるいは伝える為、「私」の代弁者としてまで、言葉ではなく写真映像が使われる。人々はそれをみて、わーっと共感する。だけど、そこに何らかの生起する感情があったとして、その正味はといえば商業広告マンが巧妙に作り上げてきた魅惑的で使い勝手のいいだけの消耗品的幻想、バリバリの既製品だ。それはいわばファストファッション的、100円均一の感情といっていい。安易に共感できるからこそ、それは本来疑ってかからなくてはならないのにそんな事にも気づかない、いわば写真が社会に従属させられ消費活動に敗北した、そんな時代に僕らは写真家をやっている。

 僕の写真家としての本質的なスタンスは、世界がまず在って、それら全てをこちらに引き付ける事、表出としての私的凸型ではなく、極力自己を消失するようにして徹底して外界を引き受けること、それはあるいはスタンスというよりも矜持といえるかもしれない。また、そうすればまだ見ぬ新しい何か、ありのままの世界が写真として立ち現れるのではないか、それこそが写真の最も得意な事柄ではないか、という期待、希望の裏返しでもあって、イメージや情報や意味に干渉されない永遠のフロンティアを目指すような原始衝動、矛盾した言い方になるけどそれが〝変わり続ける、変わらぬ写真の新しさ〟であり美しさである、と僕の中では言える。それが僕のひとまずの写真家としての核となる考えであるといっていい。
 ここ数年はそれをベースに、何処かの本にあったマノエル・ド・オリヴェイラ*2の発言、”説明をほどこそうとはしない光にひたっている、あふれんばかりの素晴らしい記号たち”という言葉に惹きつけられながら、例えば具体的にいうと靴、花、パン、カボチャ、鞄、バイク…、といった誰でも見知っている名詞(記号)、街に転がっている静物を淡々と撮影し、その結果を2冊の写真集*3に纏めた。長くなってしまったけど、ここまでがとりあえず僕の自己紹介のようなものです。

 さて、シノハラくんは少し前に「エヌ 人間」という写真集*4を出した。
 僕はいまそれを手にとって眺めている。内容はというとモノクロームで捉えた二百人を超える顔、というよりは行きずりの相貌を集めたものだ。驚いているというよりは不審そうに睨む人、まったく気づいていない人ばかりが延々と90数ページに渡っている。おそらくその全てが無許可で、路上で擦れ違いざま、しかもカメラをかなり顔に近づけて撮影したものだ。何故そのような撮影手法を選択するのか、例えば気になる被写体がいた場合、声を掛けて撮らせてもらうとか、もう少し長いレンズで距離をとって撮影するとか、街中で人間を撮影するにしても手法はいくらでもある。何故、自らが接近し肉迫するようにして撮影するのか。あえてそのような手法を選択することで、端的に人間の粗暴さを殊更演出しようという意図はないだろうことはわかっている。ましてや蔓延するファストファッション的、100円均一的写真に対する単なるアンチテーゼでないことも分かっている。
 「エヌ 人間」という写真集が作られるまでのこと、僕がだらだら愚想を凝らすよりもまずはその辺りのことから、率直に聞いてみたいと思う。
 例えば今日の服装について問われ、寒かったから、手近にあるものを羽織っただけ、というようなことはやはり言わないはず、何故なら写真家は自らの意思でカメラを掴み、街へ出て撮影し、作品として発表までするのだから──。

 

2017年 1月7日
横山隆平

 

果たして路上は、都市のネズミの書く詩のように続いてゆく/ 2016より

 

街区の壁の野晒しの、いずれ消えゆくグラフィティのような都市と光と静物のひどく短い歴史 / 2015より

横山隆平 さま

 僕が横山さんの写真を見たのは10年も前の話で、81LAB*5の冊子を眺めたのが最初でした。当時僕は写真展をしたことがなく、漠然と展示したいと思っていたときにあの冊子を見て、写真集という選択肢もありだなぁ、と思っていました。(決してお世辞とかではなく。)それからしばらくして横山さんがCITYRAT pressを共通の知り合いの中澤さんやカワトウ君たちと立ち上げて、昨年末にgallery Mainでの展示で初めてお会いしてこうして言葉のやりとりをするなんて、何か縁というか世間の狭さというか。そういうものを感じます。
 さて「往復書簡」ということで、質問には応えなくてはいけません。しかし横山さんの投げかけは僕が大きく頷くことしか書いていないというのも事実です。今回のテーマは「写真についての言葉」について、です。
 仰る通り、事実として「写真は写真でしかない」です。写真家として僕は無名ですが、普段僕は人にそう言っています。ちゃんと理由はあります。半分が「説明するのが面倒」で、もう半分が「説明しようと思ったら三日三晩自問自答を繰り返し、絞り出た言葉をまた三日で否定してしまいそう」だからです。

 「写真=◯◯」と堂々と語るのはカッコいいとは思います。SNSが普及し、誰もが発信できる世の中で、例にも漏れず「写真=」を語る名前も知らない写真家たちが現れてきました。しかしその言葉を見るたび僕はいやな気持ちになる。僕は彼らがまるで模範解答をしないように写真も言葉も慎重になっているようにしか見えてません。常に新しい切り口を見つけてやろうと躍起になっている姿は素晴らしいとは思いますが…
 でも僕は、僕たちのような写真家は「写真」を何かとイコールしてはいけないものなのだと思っているんです。僕が半分面倒だからという理由で答えている「写真=写真」は、他の言葉に喩えようがないのだから、多少大御所感が出ていようが態度がでかかろうが、僕はそれしか説明ができないんだよと半ば白旗を振っている合図なのかもしれません。僕は普段街に立って、そこに行き交う人々を見ていますが、例えば僕が立っている場所が街ではなく地方の動物園で、見ているものが可愛らしい小動物だったとしても、僕はカメラがあればそれを撮るだろうし、プリントしてみてカッコよく写っていたらそれを展示すると思います。写真を何かに喩えてその言葉に縛られたくないというのが本音なのかもしれません。見ているものを写して、それを壁に吐き出すように展示する。ただそれを繰り返しているだけなんです。(呼吸のように?)
 「写真=◯◯」と、自分の言葉で自分の写真を締め付けるのは少し勿体ないと思っています。「どうせ僕なんてモテないから」と合コンを断っているのと同じくらい勿体ないかなって。僕は合コン行ったことないんですが…
 これが面白いもので、次のやりとりで吐き出す僕の言葉は、先に述べたものとは違うものを吐き出しているかもしれません。いや、僕はそれくらいテキトーでも良いものだって思っています。

 テキトーでも良いと思えるのは、僕がこれしかやっていないから。街があり、街に立ち、歩き、撮る。これをずっと続けているからなのかもしれません。
 しかし初めてカメラを握った頃からそうしていたわけではありません。最初はニコンのフィルムカメラを貯めたバイト代で購入し、近所の雑草や動物静物、山や雲を撮ってニッコリしている内気な人間です。今はモノクロで人間に殴りかかるようにとっていますが、気持ちとしては雑草や動物生物、山や雲を撮るときと同じ気持ちで撮っています。横山さんの言葉を借りると、まず世界が在り、それら全てを受け入れて、引き付ける行為です。人間だからって構えるのではなく、僕は街に溢れる人間をマネキンか何かと勘違いして撮っています。人見知りである僕にとって、それぐらいの感覚でいた方が人だと意識しなくて済みます。カメラを盾にして歩けば、皆怪訝な顔をしてくれる。そんな顔をしている人たちはSNSで政治、経済、環境、好きな男や好きな女、ランチの報告、学校や会社の愚痴、映画やアニメの感想、小説や漫画の読破宣言、音楽の趣味、写真= etc…を連日書きなぐり、一方で繁華街ではオシャレに着飾り、髪型を整え、化粧を何層にも施して幸せそうに街を歩く無限に近い顔顔顔。
 ネットが普及する以前から、街で人を撮る写真家たちは理由を探していたのかもしれません。彼らは街に立ち人を見ながら考えていたかもしれません。例えばセクシーな女が実は相当な味音痴だったら…例えば二度見するほどカッコいい男が、ホラー映画で半べそかいてたら…そう妄想しながら街を楽しく撮り歩いていたのかもしれません。

 ひょっとすると僕も妄想が強いのかもしれません。しかし妄想しながらだといつまでたってもシャッターにかけている指が動きません。撮るときも見せるときも、僕はただただ街で人を見ているだけです。

 CITYRAT pressから発行した「エヌ」は今まで何年も何年も撮ってきて初めて人だけで構成した写真集です。今までは人も、街の風景も、街に転がっているモノや動物も全部掛け合わせて見せていました。それが僕の写真の原点だと思っていました。その原点を分解してみようとタブロイドシリーズ「CROPS」*6を始めました。人だけ。風景だけ。モノだけと、3つに分解して僕の原点を見つめ直そうとしています。「エヌ」はCROPSシリーズから人だけで構成した「MAJORITY NOIS」の完全版。僕が見た(反射的に防御した)人間という生き物です。

 でも、僕の写真の原風景は先に書いた通り街と人ではないです。ニュータウン特有の整備された町と、とってつけたような街路樹。自然と人工物が中途半端に融合された殺風景な光景でした。それに見飽きた僕は、ゴミゴミとした繁華街や人の匂いが消えない下町に強い憧れを持ったまま、その光景を見るためだけに街に立っています。
 僕はこういう文章を書いていると、よく記憶を辿ろうとしてしまいます。その記憶が本当に正しいものなのか、何か都合の良い記憶にすり替えられていないだろうかと不思議に感じると、僕は無性に原風景を探しに行きたくなるのです。

 横山さんの原風景は街なのでしょうか。それとも、僕と似たようなもので原風景と対をなす光景を眺めているのでしょうか。世界が在り、それを引き受けるとしたならば、街に立ち続けるのは何故なんでしょうか。

 

2017年1月12日
シノハラユウタ

 

エヌ NINGEN / 2016より

 

原風景 / 2016より

 

注釈
*1 gallery Main 京都にある写真専門のギャラリー
*2 マノエル・ド・オリヴェイラ/ ポルトガルの映画監督
*3 街区の壁の野晒しの、いずれ消えゆくグラフィティのような都市と光と静物のひどく短い歴史(2014年)、果たして路上は、都市のネズミの書く詩のように続いてゆく。(2016年)
*4、「エヌ 人間」*3、4共にCITYRAT pressより刊行
*5 Photogrtapht Magazine 81LAB. 写真専門の季刊のフリーペーパー。現在は廃刊。
*6 2015年8月から月に一度、半年間発行したタブロイドシリーズ。

横山隆平

横山隆平 Ryuhei Yokoyama

写真家。1979年大阪府生まれ。
モノクロフィルムによる都市写真を中心に作品を展開。Photography Magazine 81LAB.、CITYRAT press立ち上げに参加。主な作品集に「TOKYO,UNTITLED.」、「酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ」等がある。2016年ゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
http://www.gumbuilding.com/photograph/

シノハラユウタ Yuta Shinohara

1985年島根県生まれ。大阪府在住。
2006年ビジュアルアーツ専門学校卒業。以降大阪を中心に写真活動を行う。
主な個展に「NO BRAIN」(gallery 10:06 - 2008年)、「Mr.Liberty」(TOTEM POLE PHOTO GALLERY - 2012年)。作品集に「CROPSシリーズ」(タブロイド版-2014~2015年)、「エヌ 人間」(CITYRAT press 2016)がある。

オフィシャルサイト
http://www.shinoharayuta.com

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