CITYRAT press PRESS特別企画『写真家は写真についての言葉について語らなくてはならない』
二人の若き写真家がメールでのやりとりを通じて写真について考え問い、少しづつ言語化していく──。
往復書簡、第四回『二つの問い』公開。

 

シノハラユウタさま

 返信が遅れてしまってすまない。 
 なんだかお互いにいつもアルコールを傍らに書いてるようだし、酒呑み書簡みたいになってきたな。
 さて、与えられた問いかけに答える前に、まず”写真と写真集と展示”についてもう少し詳しく僕の考えを付け加えておこうと思う。重要なことなのに、曖昧な投げかけのまま説明をすることなく課題だけを放り出した格好になってしまったから。

 僕は前回「写真と写真集と展示をそれぞれまったく別のものとして、つまりあるシリーズの写真をそのまま写真集に、写真集の内容をただ空間に移すというやり方ではなく、切り離して考えた方がいい」と書いた。その意図するところはつまり写真展にしても写真集にしても”どのように写真を配置し、組み合わせて観てもらうか”という最小の枠の中での構成、一度その考えから抜け出してみること。僕が言いたかったのそういうことだ。まだまだ途上の考え、アイデアではあるけれど、そのあたりのことをなるべく具体性を持って書いてみようと思う。
 まず写真展については、その時々のテーマやシリーズに即してもっと目に見えるやり方でショーアップした方がよいのではないか、と考えている。それは具体的にいうと、装飾や音や空間演出によってむしろ作られるはずもので、小さなテーマパークをつくるようなイメージ、ファッションショー、あるいはロックバンドのツアー、という方が伝わりやすいかもしれない。例えば、今回の展示には朽ちたアンティーク額と錆びたメリーゴーランドが必要だ、みたいなね。
 他にもギャラリーという空間で2週間ないし1週間という期限付きでやるのがいいのか、あるいは海岸や森の中、ライブハウスのトイレ、どこかの廃屋やバーの酒瓶の間でひっそりとやるべきだ、といったこと。この辺りはPIS*1で実際に取り組んでいる事柄だけど。
 次に写真集においては、同じ写真の違うプリントを数枚並べてみたり、AI技術を使用してモノクロ写真を自動でカラーにする技術*2を使ってみたり、直接スプレーペイントしたり、半分ずつ切れる形でページに配置したりもっと写真集そのものが独立した作品となるようなものを志向してもいいのではないか、ということだ。
 極論をいえば、状況の中に在る写真の提示の形式、仕組みそのものを疑ってみること、再度考え直すこと、元の写真、写真集、展示の三者が始まりは同一であってもたどり着く場所の異なるといった、そのようなこと。前回はさらっと書き流しただけだから、何ら具体性を帯びず解らなかっただろうけどね。そういった意味で僕は「NO BRAIN」*3を面白いと思ったわけだ。
 ただ、ここに特別な主張があるわけではない。僕がこれまでに観てきた写真展、それから写真以外のジャンルの展示、作品集を考えるとき、自然に感じたことだ。それから去年の夏に瀬戸内でやった屋外展示、高松の海岸沿いの倉庫の壁面に4m×3mという巨大なプリントを雨晒しに展示したことも影響しているだろうとも自覚している。
 もちろん全ての写真展や写真集がそうあるべきだとは思わない、ただ時としてそのようなオルタナティブなやり方や方法があってもいいし、写真それ自体の性格上やはり表現とは成らぬ以上、必要な場合もあるだろうと──。
 今後、実際にどこまでやるかはわからないけど、現在はそれらの事柄にある一定の興味と関心を持っているということ。そんなところかな。

 「自分の写真で一番伝えたいことってなんでしょう」
 シノハラくんからのこの問いかけはシンプルだけど奥深いものだ。だけど僕は、ことこの問いに対しては、大雑把だけど的確な答えを持ち合わせている。
 「世界は飽くことなく美しい」
 言葉にしてしまうと恥ずかしいけど、これが僕の正直な答えだ。これ以上でも以下でもない。そしてまたこの問いかけと同レベルにあり対を成すのが、
 「写真で何がしたいのか」
 という問いであるともまた思う。この問いに対してもやはり僕は真正面から答えることができる。
 「雑景ともいえる目前すらも記録し誰かに伝えるに値するほどにまた美しい」と。
 そしてまた同時にこうも期待し、続けるのである。
 「未だ見ぬ、日々あり続けるその雑景の美しさの集積を目にした誰かが、それらを土台にして言葉を尽くし、或いは音を尽くし、手を尽くして新しい何かを生み出すのだろう」と──。
 僕はそのための資料として、自身の撮る写真を捉えている。現在ウェブで公開しているGRAFFITI ARCHIVEはその最たるものだ。基本的にイリーガルな行為だけにあっという間に消されてしまうからね。現在はさして眼に留まらないだろうけど20年、30年経ったときにその記録の貴重さ、そして写真としての意義を帯びてくるはずだ。
 さて、この問いをそのままシノハラくんに聞いてみたい。
 写真で何がしたいのか、あるいは何が出来ると考えているのか、そして写真を発表し続ける理由や意義、動機はどのようなものなのか、そのようにして生まれた自身の写真をどのように捉えているのか、と。

 1月から始めて3ヶ月近く、これまでに4回のやりとりをしてきた。
 ここがひとつの区切りになる、と僕は書きながら感じている。さきに書いた二つの問いが導き出されたことが、この往復書簡のとりあえずの成果だとも思う。私信という体裁をとっているからこそ出てきた問いだと思うし、恥ずかしいけど率直にそれに答えるのがやはり筋だとも。

 とりあえずこれでメールでのやりとりは最後にして、あとは来月、僕が大阪に行ったときにでも、大酒をやりながら話の続きでもしよう。
 それでは、最後の返信を待ってるよ。

 

2017年3月15日
横山隆平

 

 

 

無題 / 2017

 

果たして路上は、都市のネズミの書く詩のように続いてゆく/ 2016より

横山 隆平様

 返信ありがとうございます。こちらこそ遅れてしまって申し訳ないです。

 横山さんの「写真と写真集と展示」の感覚は非常に興味深いです。同一シリーズで見せ方を変えてみるということは、やろうと思ってなかなかできるものではないと思います。ただ仰るとおり、見せ方が違うのだし、見る場所も違うのだからそう考えることは自然のことなんですよ。僕も写真集と写真展の見せ方は若干変えていますし。。。本当に若干ですが。
 もし、「NO BRAIN」が写真集になったら、どんな構成になるんでしょうね。僕の写真集は見開き1枚という見せ方しかしていないので、2万ページの本ができちゃいそうですね。でも、さすがに1万枚の展示は難しいにしても、定期的に僕の頭の中を披露するのは悪くない方法だと思っています。今回は言葉で少し披露しましたが、写真で再び頭の中を見せる機会は欲しいですね。

 さて「写真で何がしたいのか」ですが、困る質問ですね。笑
 僕は写真行為というものを生活から切り離せないだけ。というのがそもそも頭の中にあった答えなんですが、これだけでは恐らく足りないですよね。じゃあ何故切り離せないのか、まで書かなくちゃいけないですね。
 小さい頃に親から教わった「米粒を残してはいけない」とか、「寝ている親を跨いではいけない」とか、「夜に口笛を吹いてはいけない」とか。なんでいけないのか分からないけどそうかいけないことなのかと認識していることってあるじゃないですか。それと同じ感覚で、「写真は撮ったら見せないといけない」というのを昔から思っていたりします。
 ならば自己完結で済むじゃないってなると思うんですよ。撮ってプリントして、自宅トイレにでも飾っておけばってなると思うんですが、僕は「撮って、プリントする」とか、その後誰かに見せるとかまでが自己完結だってどうも思えないんですよ。Origins*5のタブロイドフライヤーで書いたんですが僕が写真を撮る理由は展示をするためで、僕が展示をする理由は写真があるからなんですよね。撮る、プリントする、展示をするが1つの輪っかになっていて、無限にループしている感覚なんです。嬉しい言葉をもらいたいから展示をするのではないんです。チヤホヤされたいから展示をするわけでもないんです。モテたいから展示をするのでは…あ、これはちょっとあるかもしれません。笑
 写真展や写真集は、発表の場というよりも僕自身が「よし、また撮るか」と気合いを入れられる場なんです。完結しないんですよ恐らく、いつまで経っても。
 プリントが1つの完結なら、恐らくそこで写真はおしまいだろうし、展示が完結だったら、僕なら「NO BRAIN」で終わっているはずです。どこでもどんな形でも展示が出来るのならしたいし、その為には撮っておきたい。そこが大きな街だろうと、小さい漁港だろうと僕はカメラを離さないし、それがモノクロだろうとカラーだろうと、見つめてきた世界をプリントして、また撮るために(あとモテるために)展示を続けたい。その積み重ねの最中なんだろうなって思っています。
 だから、写真で何がしたいのかという問いは非常に困るわけなんですよ。極端な話、「撮って、プリントして、展示する」というループを断つことは僕にとって想像もつかないことで、展示や発表そのものに魅力を感じているわけではなく、このループこそに何よりも魅力を感じているんです。同じ行動をしているのに形が違う。同じ街に立ち続けているのに結果が違う。一生完結することのないループで、僕は何を見るんだろう。何を残せるのだろう。ループに終着点はあるのかという興味、ループの中で流されることなく、しっかり足をつけて歩き続けたい。写真でなくとも…と言われたらそれまでですが、僕は写真でそれがしたいんです。

 ちょっとややこしい奴だと思われてるかもしれません。久しぶりに素面で文章を書いていたら僕自身もややこしいと感じる内容になってきました。でも、書きたいことは書けたつもりですし、僕の頭の中も披露出来たつもりです。(質問に答えられたかは分かりませんが)
 でもやはり言葉って難しいですよね。横山さんも書いてましたが、続きは大酒を飲みながら続きをしたいですね。呂律が回らないくらい、お互いがお互いに何を言っているのか分からない状況でする写真の話は、本当にカオスで大好きです。

それでは。

2017年4月8日
シノハラユウタ

 

 

ループ / 2017より

 

nontitle / 2016より

 

注釈
*1 PIS(Photograph in the STREET)2016年に写真家の内倉真一郎と始めたゲリラ展示プロジェクト。
*2 ディープネットワークを用いた大域特徴と局所特徴の学習による白黒写真の自動色付け(飯塚里志、シモセラ・エドガー、石川博)
*3 2008年に大阪市北区にあった写真ギャラリーgallery 10:06で行われた一万枚にも及ぶL版写真を壁や天井に貼ったシノハラユウタの初個展。
*4 2014年、gallery9にて開催された写真展。「人。街。風景。」というシノハラユウタが主に撮る3つの被写体を織り交ぜた写真展。

横山隆平

横山隆平 Ryuhei Yokoyama

写真家。1979年大阪府生まれ。
モノクロフィルムによる都市写真を中心に作品を展開。Photography Magazine 81LAB.、CITYRAT press立ち上げに参加。主な作品集に「TOKYO,UNTITLED.」、「酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ」等がある。2016年ゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
http://www.gumbuilding.com/photograph/

シノハラユウタ Yuta Shinohara

1985年島根県生まれ。大阪府在住。
2006年ビジュアルアーツ専門学校卒業。以降大阪を中心に写真活動を行う。
主な個展に「NO BRAIN」(gallery 10:06 - 2008年)、「Mr.Liberty」(TOTEM POLE PHOTO GALLERY - 2012年)。作品集に「CROPSシリーズ」(タブロイド版-2014~2015年)、「エヌ 人間」(CITYRAT press 2016)がある。

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