CITYRAT press PRESS特別企画『写真家は写真についての言葉について語らなくてはならない』
二人の若き写真家がメールでのやりとりを通じて写真について考え問い、少しづつ言語化していく──。
往復書簡、第三回『既視感と未視感』公開。

 

シノハラユウタさま

 返信ありがとう。
 偶然にも2008年という同年にシノハラくんは「NO BRAIN」で、僕は「TOKYO, CHANCE OPERETION」で自身のスタンスを確認する出来事があったわけだ。それにしても一万枚にも及ぶ写真を展示するというのは、ほとんどコンタクトシート全てを曝け出す感じに近く、とても僕にはできそうにない、と感心するし、面白いと感じてもいる。写真の最も重要で単純なセオリー、”量のない質はありえない”、というところの”量”をそのまま提示するということなのだから。
 また、シノハラくんは展示そのものの方法としては、”インスタレーションのようになってしまった”という理由から否定的な結果を見出したようだったけど、僕は最近、写真と写真集と展示をそれぞれまったく別のものとして、つまりあるシリーズの写真をそのまま写真集に、写真集の内容をただ空間に移すというやり方ではなく、切り離して考えた方がいいとも思っていて、そういう意味合いでもやはり興味深く捉えています。今年は展示する機会がある程度決まっているので、そのあたりをいよいよやってみようか、と現在考えているところです。

 さて、撮影に関するより具体的な問いかけに話を移そう。
 シノハラくんからの問いかけは、繰り返し同じ街を撮影対象とすることで起こる既視感、デジャヴュとどのように付き合っているか、ということだけど、改めて考えてみると僕はどうやら基本的にジャメヴュ、未視感の方を強く感じている、無意識的に意識していると言っていいようだ。それはつまりデジャヴュの逆でいつも見慣れている風景がふと初めてみたような感覚になるということだ。だから以前に、あるいは数日前に撮った場所であっても構わずシャッターを切る、そして切れるのだろうと思う。
 それともうひとつ、任意の場所をとってはいるが、状況、場面として捉えているという事があるのだろうということ。冒険家のようにまるで見たことのない秘境というのではなく、よく見知った街のその時々の異なる有り様、それは例えば、陽の良く射す場所があったとして、そこには様々な要素が寄り集まってその風景を構成している、路肩に停められたバイク、立食いそばの立て看板、街灯に寄りかかって煙草を吸う若者、携帯に夢中になる太陽に煌めく金髪の女の娘、軒先に積まれたビールケース、目の前を横切るタクシー、郵便配達人、スーツ姿に纏わりつくように翻るコート、その後姿、不動産の張り紙、そこらに散らばる昨夜の狂乱の残滓というような雑多な事物、都市を形作る要素が入れ替わり立ち替わりすることによって変化する表情、雰囲気というようなそういったこと、言うならば二度と行われることのない即興劇のような、そういうことに僕はきっと第一義的に反応しているのだと思う。
 それからまた、都市という土地柄、頻繁にビルは壊され一時的に空地となって、光の抜け道を作り、次のビルが建つまでのほんの一瞬の間隙を縫ってグラフィティが描かれ、そして新しい商業施設を満載した建物が姿を現わす。壁面には電飾や広告が、ショーウィンドウには流行の洋服が飾り並べたてられ、それはもう翌日には別の装いへ取って変えられるといった風な極端な速度の代謝、出会いと別れ、出現と消失を繰り返す、ごちゃごちゃと煌びやかで如何に賑やかであってもどこか刹那的な風景。同じ場所であっても舞台背景が流々と変わる、結局それがまた僕を飽きもせず同じ場所へと足を運ばせ、繰り返しカメラを向けさせる理由のひとつだろうとも考えている。
 とはいえ時々、それこそ既視感に纏わり付かれ、どうしようもなく街に反応ができなくなってしまって、いくら歩いても興味を持てず、4時間経って1本すらまともに回せない時がある。そんな時はもうあっけらかんと、映画の中でじゃりん子チエが言っていた「明日は明日の太陽がピカピカやねん!」という僕の好きなセリフを思い出しながら、その日は撮影をさっさとやめて手近にあるやきとり屋かなんかで一杯やってしまうことにしている。ふざけているようだけどこれが、シノハラくんからの問いかけ、既視感を取り除く方法としての実際的な答えかもしれない。

 考えてみれば、じゃりん子チエのセリフにしてもそうだけど、僕はその時々においてどこかで特別な言葉に出会い、あるいは呼応するようにそれをその時に中心に据えている写真についての考えとを編み合わせながら、全体を押し進めているようなところがある。それは別に僕がことさら探している、というのではなく、たまたま読み返した本や漫画の主人公のセリフなどの他愛もない文字が急に輪郭を際立たせて浮き上がってくる、そのようにして本当に自然に出会うもので、そしてそのすべてが写真について直接言われたのではない、それとはまるで無関係な言葉だ。
 またそれらの言葉は僕の写真を補ったり付け加えたり説明したりするもの、そのような関係ではなく、”写真前夜”の内で静かに中心に横たわるといった在り方で、以前に書いたマノエル・ド・オリヴェイラの言葉*1、そしていまはまた田村隆一*2の『言葉のない世界』の最後の一節に導かれるように、また勇気付けられもし撮影を続けている。
 僕にとって言葉というのは他人の言葉であれ、自身のそれであれ、決して表に出てはこなくても写真をやっていく上でとても重要な要素なんだけど、シノハラくんにはそのように大事にしている言葉、勇気付けられるような言葉や信条のようなもの、あるいは言葉でなくてもそれに類するようなものはあるだろうか。
 
 「ウィスキーを水でわるように言葉を意味でわるわけにはいかない」
 僕は先に挙げた田村隆一の、その語句の一部を自分勝手に入れ替えて「ウィスキーを水でわるように写真を意味でわるわけにはいかない」として現在心に刻み込んでいる。なかなか痺れる言葉だと思わない?


2017年2月18日
横山隆平

 

 

酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ / 2006より

 

グラフィティ・アーカイブ / 2016より

横山隆平様

 返信ありがとうございます。
 僕と違うところに目が行きがちですが、何度も横山さんの返信を読んでいるともしかしたら基本的な考えは同じなのではないか、そう感じてきました。
 例えば横山さんが仰る通り、”同じ場所であっても舞台背景が変わる、結局それがまた僕を飽きもせず同じ場所へと足を運ばせ、繰り返しカメラを向けさせる理由”として僕は人間の動きに反応しているのかな、と思いました。まぁ、正直な話本当に無心なんですが…
それに、僕も撮影時全く気乗りしなくなったり、歩き疲れた時はよく居酒屋を探していたりします。

 あと、僕も撮影と写真集と写真展は別の考え方で取り組んでいると思っています。インスタレーションと前回は言いましたが、写真展は1つの空間の中で自分が見てきたものを曝けだすものです。写真集は読者自身の好みの空間の中でコーヒーや酒をテーブルに置いて1ページ1ページじっくり見るものなので、「ページを捲るとどんな世界があるのだろう」とある程度想像させるのも1つの手法じゃないかって思ってます。以前、誰かに写真展と写真集でのセレクトの違いに工夫はしているのかという質問を受けたことがあります。すんなり答えられたのでおそらく僕が無意識に近い感覚で意識していることだと思うんですが、写真展は「どこから見ても良い」ようにセレクトしています。もともとストーリー性も何もない写真なんですが、例えばギャラリーの出入り口から右回りで見ても、左回りで見ても見る人それぞれの感想があまり変わらないようにしています。この考え方も、やはりNO BRAINから持っているもので、あの展示こそ順番にちゃんと見ようという観覧者の気持ちを潰しにかかっている展示ですからね。NO BRAINから毎回見ているよって人はおそらくいないと思うのがちょっと残念ですが。
 一方で写真集ですが、これは今までは僕の読み物としての固定概念である「読み物は1ページ目から見ないと分からない」という考え方で作っていました。CITYRAT pressから出した「エヌ」も、完全自費出版で出した「Mr.Liberty」*3も、1ページ目から順番に見て欲しいって気持ちで作っていたんですが、でも先に自分で書いた写真展の考え方で、どのページから読んでも良いような写真集になっています。いや、写真集で何より大事なことって、読んでいる人に僕と同じように写真を撮ってもらえるじゃないですか。言葉がかなり足りないので補足すると、「写真」って僕たちのためにある言葉ではなくて、展示を見る人や写真集を読む人のためにある言葉だと思うんですよね。見る人や読む人にとっての写真を、代理で僕たちが撮っているような。みんながみんな街を4時間も歩かなくて良いんですよ。みんながみんな標高2,000m級の山に登らなくたって、戦地の最前線へ進まなくたっても、みんなが一枚の紙切れを見てそれを疑似体験してくれたら良いんじゃないかな。だから僕の写真を見るときは、例えばそこが大阪か名古屋か分からない街中でも見る人読む人が現地に行かなくてもそこを歩いてる感覚になってくれたら良いんじゃないかなって、ここ最近思っています。一種のVRみたいなものかもしれないですね、写真って。

 あ、質問に答えてなかったですね。

 大事にしている言葉…うーん…恐らく横山さんなら薄々感づいてるかもしれませんが、僕は言葉という情報をいちいち記憶する人間じゃないんです。ほら、冒頭や前回にも書いたように撮影時のデジャビュを考えるのは撮影後の話で、撮影時は本当に何も考えず、無心でいるんですから。
 セレクト時の考え方にしてもやってみてダメなら考え込むの繰り返しで、横山さんのようにある日ふと他愛もない文字に輪郭ができるようなことは今までありませんでしたし、その文字が自分の写真を補完してくれるものにもなったことがありませんでした。自分を美化するなら、この言葉1つ1つが自分自身から捻り出したもので誰の言葉も借りたものではないということ。
 悪く言うと実は知識も何もない、頭の良いフリをしているだけの人間なんですけどね。
 結論を言うと、僕の中で大事にしている言葉や信条はあまりないです。街を歩くときと一緒で、そこに何千回も足を運んでいたとしても、通りがかる人はみんな別人で毎日撮っていても飽きることはない。毎日違う刺激を目の中に入れて生きているのだから、僕たちに何か信条めいたものを持たせてみても、目が曇るだけなんじゃないかって思っています。ちょっとカッコつけすぎましたが、つまるところ、そういったものが僕の信条なんでしょうね。目を曇らせるのは結局自分自身の固定概念ですから。

 言葉ってやはり難しいですね。何より僕の言葉1つで僕の写真の見方が変わってしまうんじゃないかってことにある種恐怖を感じています。
 そりゃ隣で僕が写真の解説をしたほうが、見る人にとったら気楽だとは思います。でも、僕は街を見てて、人とすれ違い続けているだけです。そこにイデオロギーだのなんだのというメッセージはなくて、僕自身もまた街の中にいる声なき人間の一人に過ぎないですからね。本当に難しいんですが、僕が僕の写真で一番言葉で伝えたいことっていうのは「伝えたいことは何もないんだよ」ということなんです。どうやって伝えようかは、多分死ぬまで考えるんじゃないかなって思ってます。横山さんは、自分の写真で一番伝えたいことってなんでしょうか。

 缶ビールとタバコが切れてしまいました。考え事をするとタバコの量が増えるし、考え疲れると酒の量が増えてしまいます。もう遅い時間なんですが、どっか飲みに出かけましょうかね。酔っ払った次の日はいつも酔っていた時の記憶を漁るんですが、明日の朝はこの言葉たちを思い返して「やっぱりカッコつけ過ぎたかな」って反省するんじゃないでしょうか。

 

2017年2月26日
シノハラユウタ

 

 

Mr.Liberty / 2012より

 

Origins / 2014より

 

注釈
*1 ”説明をほどこそうとはしない光にひたっている、あふれんばかりの素晴らしい記号たち” 映画史(ちくま学芸文庫) ゴダールとの対談の中にあった発言。
*2 田村隆一(たむら りゅういち)戦後に活躍した日本を代表する詩人。『荒地』創設に参加。代表作に「立棺」、『四千の日と夜』などがある。
*3 Mr.Liberty:2012年に完全自費出版した写真集。A4、120頁。現在も販売中、500円

横山隆平

横山隆平 Ryuhei Yokoyama

写真家。1979年大阪府生まれ。
モノクロフィルムによる都市写真を中心に作品を展開。Photography Magazine 81LAB.、CITYRAT press立ち上げに参加。主な作品集に「TOKYO,UNTITLED.」、「酔っぱらったピアノ弾きのようなやりかたでシャッターを押せ」等がある。2016年ゲリラ展示プロジェクトPIS(ピス)をスタート。

オフィシャルサイト
http://www.gumbuilding.com/photograph/

シノハラユウタ Yuta Shinohara

1985年島根県生まれ。大阪府在住。
2006年ビジュアルアーツ専門学校卒業。以降大阪を中心に写真活動を行う。
主な個展に「NO BRAIN」(gallery 10:06 - 2008年)、「Mr.Liberty」(TOTEM POLE PHOTO GALLERY - 2012年)。作品集に「CROPSシリーズ」(タブロイド版-2014~2015年)、「エヌ 人間」(CITYRAT press 2016)がある。

オフィシャルサイト
http://www.shinoharayuta.com

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